プロジェクト学習
Wholehearted purposeful act =全身全霊の目的のある営み
これはキルパトリックさんの言葉です。
昨日は、首藤久義先生とキルパトリックのproject methodを原書で少し読みました。
英語を読むことに慣れていないけど、首藤先生のガイドもあり楽しく読みました。
その中での言葉です。
意味のない繰り返しより、〜たいからスタートして、目的意識をもって取り組むこと、だから知りたくなるしもっとやりたくなる。その中に学びが生まれるんだって思います。
100年前に書かれたこの論文が今なお新しい。自由があるということはこんなにも素晴らしい。
そして、論文の中にはif〜 という文が出てきます。キルパトリックでさえも断定的に何かを語るのを避けている。とても誠実な態度だと思います。これも首藤先生と読まなかったら気付かなかったでしょう。学ぶとはほんとに共に学ぶことです。
原書で読む意味はそこにあると思います。
子どもが自分たちがしていることの目的が分かり、やりたいとか工夫したいという気持ちが持続できるような学びがやっぱりしたいって思います。
どんな教え方をしても、学び方をしてもたいして変わらないかもしれません。でも、やっぱりワクワクできるようなことをしたい。
生活の中に学びのタネがきっとある。
やっぱり大人になんてなりたくないなって思います。子どものことが分からなくなるからです。
先生、ほんま子どもっぽい。
そんなことを言われる先生でいたいです。
生活の中にある小さな学びの種を育てていく。そこにカリキュラムの面白さがあります。
首藤先生と話ながらいろいろ考えました。歳の離れた良き友人です。
歌集づくり
高学年にもなると好きなアーティストとかに夢中になります。僕の時代は、ミスチル全盛期でした。懐かしい
千葉大学名誉教授の首藤久義先生と仲間の先生が取り組んだ歌集づくりという実践に挑戦しました。
これは、デューイのお弟子さんの、キルパトリックさんのプロジェクト学習の考えを生かしたものだそうです。
キルパトリックのプロジェクト学習については勉強中です。
自分で好きな歌詞を選んで模写し、ふりがなふったり、分からない語句を調べたり、好きな理由やアーティスト情報を書いたり、自己紹介を書いたりします。
最後にみんなのを合わせて一冊の歌集の完成です!
やってみて感じたのは、目的が明確なので自分のペースで進めることができていました。
次に自分で選んだ歌詞というのがやりたいって気持ちを引き出していました。自己選択してます。
分からない語句を、ipadや辞典でどんどん調べます。
アーティスト情報は、とても細かく読んでて面白かったです。
歌集づくりの中に国語の大事な要素が詰まっていました。模写、語彙、感想、自己紹介。
完成度を高めるより、それを作る過程が楽しそうです。
プロジェクト学習で起こりがちなのは完成度を高めようとして、子どものペースを乱したり、やろうとしているこ以上のことを求めたりして、子どもの学びを奪うことです。
次は、本のpopづくりにチャレンジします!
楽しみです!
授業を参観するということ
人の授業を参観してる時、人は何を観て何を感じ、何を考えているかが気になりました。
何人かの方々に質問してみました。
岩瀬さんが記事にまとめています。なるほどー
というのは、授業を参観するときついつい、先生ばかり観ちゃうからです。
僕も研究主任の仕事は、良さを見つけることって考えて、先生の良いところを探すようにしてきました。
そうなると、事後研究会も先生の手立てはどうだったとか、柔らかいですねーとか、そんな話になります。
あれっ。学んでいるのって子どもなのに、、、子どものことはよく見てなかったなって感じました。先生にばかり注目していました。それだと、先生もプレッシャーを感じますし、揚げ足取りになる可能性だってあります。
子どもや先生の発言を克明に記録する授業記録をとり、それを基に分析する方法にチャレンジしたこともあります。
この方法は、一斉で話し合う授業をベースにしているので、そうでない授業の際は一人では全て記録できなくなります。そもそも記録は発言だけでいいのかという疑問も湧きます。
要は、どんな方法でもいいですが、自分の授業を参観する目的について少し考えておきたいなって思いました。
校内で授業を参観する際は
先生の良いところを探したい
子どもが生き生きした姿を探す
子どもが生き生きしていない姿を探す
この子がどんなことを感じているのか想像する
こんな感じでしょうか。生き生きした姿を生んだのはなんでかなぁとか、生き生きしていない学びにしているのはなんでかなぁとか。これは、協議会につなげる視点です。
僕の興味が惹かれるのは、一人の子の表情や仕草や言葉を見ながら、その子のことを想像することです。
日頃、授業をしていると一人の子を45分間ずっと考え続けることはできないからです。
少しでも子どものリアルに近づきたいって思うからです。
想像したから、それが何に役に立つってわけじゃないんですが、ゆっくり子どものことを考える貴重な機会です。
そんな時、僕の紙には、その子の表情や仕草、言葉とかそんなもんが記録されてます。
それを見たときの自分の感情もです。
自分が集めたノンバーバルな情報も含めた情報をたよりに、自分が感じ、考えるしかない。めちゃくちゃ主観です。
人のことって結局わかりえないんだけど、わずかな情報をたよりに理解しようとする葛藤はいつも感じているけど、ついつい子どものことをわかった気になってしまいます。分かり得ないって前提を忘れちゃうんですよね。
だから子どものことを雄弁になんて僕は語れない。そうかなぁ、そうかも、ぐらいです。
そのことを思い出させてくれるいい機会なのが僕にとっての授業を参観する意味の一つです。
授業を参観すると分かった気になる自分の傲慢さに気づかせてくれます。
そして、またそのことを忘れちゃうんだよなぁ
そんなもんです。
輪になるということ
人と話すのは難しい
自分の心が忙しくなる。不安になったり、聞くのに疲れたり、違うことを考えたり、深く共感したり、何を話そうか思案したり
とにかく忙しいのだ。
心を亡くすで、忙しい
人一人と対話するってすごくエネルギーを使う。
対話的な学びと教育の世界で言われる。
全ての学習が対話的だと、すごく疲れるだろう。
話したくない時は話さなくていい。沈黙が許される、分からないが許される、だれか話すのが得意な人たちが中心になるんじゃなく、声なき声も届く場
そんなことを考えている。
輪になる。
その昔、大切な火を囲み語り合ったといわれる輪
ぐるぐる回る
順番にボソボソって話し始める、そんな瞬間を大事にしたいって思う
輪になって話すのは、見た目は学校がイメージする対話じゃないかもしれない。誰かに応答し合うことより、ただ話し、ただ聞くだけ。
ただ、そこにあるということ
それだけが認められるそんな場がたまにはあっていい
朝の会で輪になって座る。ちょっとした話題で順番に話して朝がスタートする。
道徳の時間に、テーマについて順番に話す
そんな些細なことを大事にしたいって思う
深い学び
深い学びとよく言われます。
深い学びとはいったいなんでしょうか?
それ以上掘れないような学び?
深いとか浅いとか誰が決める?
うーん。なんか、哲学的、、、
答えがなさそうです。
教科を学びながら答えのない問いに出会っていくような学びがいいなって思います。
社会で工業を学んでいたら、工業の発展でほんとに私たちの暮らしはよくなったのか?なんて、議論をしてもいいなと思うのです。
毎朝、クラス会議をしています。たまには、そんな中でも、答えのない問いをみんなで話してみてもいいかなって思います。
学習財にどんな価値を見出すのか、そんなことを考えると面白そうです。
この本を読んで感じました。
哲学がいったいなんの役に立つのか?そんなことを考える必要がないのか?
そんなことを考えさせられました。