坊主先生は嘘つかない

子どもも教師も夢中になる学級経営や、校内研修の解説書です。僕の全てを伝えます。誰でもできます。

大事なことは見えにくい

僕は恵まれて生きてきた

 

これ、間違いないです。勉強や部活や友達や恋愛や進路や、そんなことだけに集中できる環境に育ってきました。

 

両親も優しく、兄弟もいい人たちです。もちろん、嫌なこともあったけど、取るに足らないものです。

 

そのことにずっと申し訳なさを感じていました。

 

だって、流れるニュースや世界の情勢が僕の生きてる現実とあまりに違うから。生まれた場所が違うだけで、なんで、こんなに、、、

 

社会のからくりが知りたくて、たくさん学びました。読んできた本も数千冊はあるでしょう。

でも、それだけじゃ分かんなくて

 

日本を飛び出して、とある途上国で二年間、現地の人たちと同じように暮らし、働き、食べ、飲み、泣いて、笑う日々を過ごしました。

 

僕が暮らしていた島は、決して裕福ではなく、みんなが一様に貧しかった。病気になっても医療にアクセスできない、栄養は偏る、学校に行けない、いろんなことがありました。

 

思い出すだけで苦しくなったり笑顔になったり、その二年間の経験は、まだ一度も誰にも話せていない。でも僕の宝物です、経験も友達も。言葉も話せるようになったし、現地に同化していたけど、だからってその国はこうだなんて語る資格はないって思うから。

 

おそらく恵まれた環境に育った僕は、10努力したら8の結果が出るかもしれない。それは僕の力ではなく環境に助けてもらっている。

 

でもその島の同い年の友達は、10努力しても目に見える生活の変化は起きなかった。それは彼の力ではなく環境がそうさせている。

 

市民活動家の湯浅誠さんがこんなことを話していました。

 

人は人によってタメが違う。金銭的なもの、人間関係的なもの。それなのに、人の人生を結果で判断するような、人の人生をなめたような生き方はしたくない。

 

僕がずっと悩んできたことに、一つ道しるべをもらった気がしました。

 

 

子どもだって小さな体にいろんな事情を抱えています。朝ごはんだってちがうし、いろんなもんがちがう。

 

僕ら教師は自分が経験してきた価値判断で子どもたちをみてしまう。

 

その価値判断は自分だけのもんで、その子のためのもんじゃない。

 

昔、大好きな先輩に言われました。

 

あんなぁ、子どもが先生!って言いに来る時あるやろ?どんな忙しくても話は聞かなあかん。その子が足を運んで、お前に語りかけてきてるんやから、、、

 

、、、全然できてない、、、反省

 

自分の生きた時間は変えられない。でも、相手の人生に耳は傾けられる。くだらない雑談や、改めて向き合う話とか、そんな目に見えないたくさんのコミュニケーションを張り巡らすことが、相手を理解しようとする態度が相手に伝わるんやと思うのです。

 

僕のやるクラス会議の意味はそこにありました。

 

いろんな背負ってるもんを、朝の時間に置いて、子どもらしく笑ったり、わがままいったり、頑張ったり、遊んだり、そんな風に過ごすための準備の時間がクラス会議なんですよね。

 

昨日は穏やかな一日でした。今日は違うかもしれない。人生のように山あり谷あり。人間らしくていい。

 

答えは子どもの中にある。笑顔でまた明日!って来てくれる子ども達はやっぱり僕の家族なんだ。